2009年06月14日

ごま油(ごまあぶら; 胡麻油)はゴマ(胡麻)を

ごま油(ごまあぶら; 胡麻油)はゴマ(胡麻)を圧搾して作られる食用油の一種。

通常はごまを焙煎してから搾油した、茶褐色の独自の香味を持つものを指す。焙煎の強弱でさまざまな種類がある。中華料理に主に使われるごま油は、200℃以上の温度で焙煎を行ったごまを搾油したもの。透明な太白油は、ほとんど生のまま原料のごまを搾ったもので、ごま油特有の香ばしい風味はしないが、ごま特有の旨みを有する。

ごま油が近年注目される要因として、ごま油に特徴的に含まれるゴマリグナンがあげられる。ゴマリグナンにはセサミン、セサミノールをはじめとして主なもので6種類程度ある。ゴマリグナンの中のセサミンは、肝臓の活性酸素を取り除いてくれるので肝臓を守り、機能を高める。またアルコールが分解される途中でつくられる毒素・アセトアルデヒドの生成もおさえるので、ごまを食べると悪酔いや二日酔いを防ぐ効果がある。セサミノールは非常に強い「抗酸化物質」で活性酸素を取り除く効果があり、ごまをたくさん食べれば老化の進行や、病気の発生を防いだり、また紫外線によるシミやシワにも効果があるといわれる
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揚げ油、炒め油として使用されるほか、中華料理などで仕上げに薫り付けとして加えられることもある。特に韓国料理にはトウガラシと並んでごま油の風味は欠かせない。韓国では日本より原料を強く焙煎したものが好まれる。

黒ゴマを搾った赤銅色のものを「黒絞り」、白ゴマを用いた淡黄色のものを「白絞り(しらしぼり)」と呼び、後者の方が高級品とされている。両者とも食用に供する他、後者は頭髪油としても用いる。

なお、生のままのごまを搾った食用油は「太白油」と呼ばれ、現在では高級油の扱いである。明治以前の日本では、精製せずに風味の良い食用油が得られたので榧等と共に重宝された。太白の名前の由来は、中国では金星のことを「太白」と呼んでおり、金星は夕方や明け方に一際明るく輝いて見えることから、「宵の明星」「明けの明星」と呼ばれ、美の女神ヴィーナスとも言われていることから来ている。

2009年05月29日

島津氏の処分

関ヶ原本戦において敵中突破を敢行した島津義弘は立花宗茂と共に逃走し、鹿児島へたどり着いた。義弘は桜島で蟄居したが、兄・島津義久ら島津氏首脳は家康の攻撃を予測して領内の防衛体制を強化し、臨戦態勢を採った。一方家康は先に大垣城開城において中心的な役割を果たした相良頼房・秋月種長・高橋元種に薩摩征伐の準備をするよう命じており、当時家康は島津氏を武力で討伐する方針を固めていた。

この頃九州では未だ戦闘が繰り広げられていた。10月6日には黒田如水が豊前小倉城を攻撃して毛利勝信を降伏させている。また、加藤清正は松浦鎮信、有馬晴信、大村喜前と共に小西行長の居城である肥後宇土城を攻撃していたが、西軍敗戦の報が届いたことで10月12日に城将・小西行景が自刃し開城した。肥前佐賀の鍋島直茂と勝茂の父子は伏見で家康に西軍加担を謝罪した際に本領安堵の条件として筑後平定を命じられ、直茂父子は帰国後直ちに筑後平定に掛かった。まず小早川秀包の久留米城を開城させ、続いて立花宗茂の籠る柳河城を10月19日より包囲した。鍋島軍と立花軍の間で激戦が繰り広げられたが、包囲軍に加わった如水・清正の説得によって宗茂は11月18日に開城、降伏する。
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宗茂降伏後、家康は直ちに島津義久討伐を九州の全大名に命じ、清正・如水・直茂・宗茂ら九州の全大名が、兵を総動員して肥後水俣に進軍。これに対し島津軍は、こちらも兵を総動員し軍を北上させ、薩摩・肥後国境において一触即発の雰囲気となった。島津軍は耳川の戦い(島津軍2万が大友軍4万を壊滅させる)・沖田畷の戦い(島津軍5000が龍造寺軍6万を壊滅させる)・戸次川の戦い(島津軍5000が豊臣軍1万を壊滅させる)・泗川の戦い(島津軍7000が明朝鮮連合軍20万を壊滅させる)などで勇名を日本全国に轟かせ、関ヶ原の敵中突破で改めてその屈強さを見せ付けていた。さらに、島津家の総帥・島津義久が自ら出陣しており、島津軍の士気が最大級に上昇していた。対する九州連合軍も、秀吉の元参謀で、天下統一を助けた黒田如水、本多忠勝と並び称された立花宗茂、知勇兼備の名将・鍋島直茂、数々の戦いに出陣し、猛将といわれた加藤清正らが揃っており、双方兵力も十分。このため九州の緊張は最高潮に達し、九州を懸けた一大決戦の火蓋が切られようとしていたが、11月22日に義弘が家康に謝罪の使者を送ったため、島津征伐は中止となった。以降家康と島津氏の間で交渉が行われるが、義弘は退却戦において傷を負わせた井伊直政に仲介を依頼する。直政はこの仲介要請を快諾し以降徳川方の窓口として島津氏との交渉に当たったが、島津側の窓口は義弘ではなく兄の義久、及び養子である島津忠恒が受け持った。家康は義弘上洛の上で謝罪することを再三迫ったが、義久・忠恒は本領安堵の確約がない限りは上洛には応じられないとしてこれを拒否。交渉は長期化した。島津側は家康に対し、そもそも家康の要請で義弘が伏見城守備に就こうとしたが、鳥居元忠に拒絶されたために止む無く西軍に加担したのであり、積極的な加担ではないと主張した。

その後二年にわたり交渉は続けられたが、最終的に家康が折れる形で直筆の起請文を書き、1602年(慶長7年)3月に薩摩・大隅・日向諸県郡60万石余りの本領安堵が決定された。決定後義久の名代として忠恒が12月に上洛し謝罪と本領安堵の御礼を家康に伝え、島津氏も徳川氏の統制下に入った。交渉の長期化を避けたい家康の心理を逆手に取った、義久の巧みな外交手腕が島津氏の本領安堵に結びついており、この点で毛利氏と対照的な結果になった。なお薩摩に匿われていた宇喜多秀家は家康に引き渡されたが、前田利長と共に忠恒が助命嘆願を行ったことで死一等は免れ、1606年(慶長11年)八丈島に流罪となった。

2009年04月25日

中央軍と地方軍

時代による変化はあるが、アッシリア帝国の時代、アッシリア軍は中央軍と地方軍からなっていた。地方軍の指揮権は各州の長官にあり、兵の補充や補給も各州の権限で行われた。この地方軍には被征服国の軍も編入されたが、当然反乱の温床ともなり、それに対応するために一つ一つの州は非常に細分化されていた。中央軍は王の直属とされ、「王の結び目」と呼ばれたが、そのトップにいたのは宦官の長官であり、王に代わって指揮をとることもあった。中央軍の編成は10人を最小単位とし50人隊、100人隊という編成を取る古代のセム系民族に一般的な部隊割りを採用している。王は儀式として閲兵式を取り行ったことも知られており、閲兵のための砦も建設され、平時の武器の貯蔵庫としての役割も果たした。

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兵科は歩兵(槍兵、弓兵、盾兵)、戦車(チャリオット)、騎兵などで編成された。この他に現代でいうところの工兵に相当する部隊も存在し、渡河や城攻めで大きな役割を果たした。特にアッシリア軍は弓兵を多く用いたという。盾兵は敵の弓矢から味方の兵士を守るために大型の盾を装備した部隊であり、弓兵とセットで運用された。戦車部隊は中アッシリア時代に恐らくミタンニのそれを参考にして採用されたと考えられ、アッシリア帝国期でも重要な兵科であった。特に「足の戦車」と呼ばれた王直属の戦車部隊は親衛隊とも言うべき役割を担う部隊であった。鉄の武器を使用し、東方高原から輸入した軍馬を用いた騎兵はこの時代に新たに導入された兵科である。当時はまだ鞍、鐙などの馬具が発明されておらず、後の時代の騎兵に比べて運用は困難だったと予想されるが、重要な兵科としてすぐに広まった。アッシリアの浮き彫りの中には馬上から弓矢を射る弓騎兵や、槍を構えて突撃する騎兵の姿を写したものがあり、当時の戦争の様子を知ることができる。

兵員数は最も多い時で200000人と当時の記録にはあるが、誇張であるとの説も根強い。しかし考古学者の予想する兵員数は数の開きが多く、最も少ない見積もりでは50000人程度とする説もある。正確なところは不明であるがしかし、シリア地方の諸国家の軍が時に数十人から数百人規模で記録されていることを考えれば、少なく見積もっても当時としては圧倒的な兵員数を誇ったことは間違いない。

2009年04月08日

プログレッシブ・ロック

プログレッシブ・ロックは、1960年代後半のイギリスに現れたロックのジャンル・スタイルの一つ。一般的な略称は「プログレ」。1970年代前半に商業的、音楽的なピークを迎えたと考えられる。

ロックの表現方法が多様化する流れのなか、それまでのシングル用の曲作りから大幅に踏み出した製作姿勢をもつバンドを総称した呼び方である。ロックというジャンルにとらわれることなく、他ジャンルの影響を反映した、前衛的あるいは先進的(プログレッシブ)・実験的な音楽といえる。クラシックやジャズなど、その音楽のアプローチや演奏法にとどまらず、精神までも取り込もうとしていた。

「アート・ロック」や「ニュー・ロック」、あるいは「シンフォニック・ロック」と呼ばれる場合があるが、それぞれ微妙な差異がある。また、「ユーロロック」と呼ばれることがあるが、その理由はイタリア・フランス・オランダ・ドイツに有力なバンドが存在していたためであり、創作の姿勢や演奏形態を表しているわけではない。

命名 [編集]
プログレッシブ・ロックという言葉は、当時、東芝音楽工業のピンク・フロイドの宣伝担当ディレクターであった石坂敬一が、従来のロックとは異なるピンク・フロイドの音楽を形容するために考案したものといわれている。しかし、"progressive rock"は英語でも普通に使われている言葉であり、海外で生まれたと考えるのが自然であろう。ちなみに海外では"progressive rock"を略する場合、"prog-rock"と呼ぶ。

1970年発売の同バンドのアルバム『原子心母/Atom Heart Mother』の帯に、「ピンク・フロイドの道はプログレッシヴ・ロックの道なり!」というコピーが掲げられている。これがおそらく、日本で「プログレッシブ・ロック」という言葉が使われた最初である。

定義 [編集]
「プログレッシブ」とは、本来、「先進的」・「前衛的」というような意味だが、プログレッシブ・ロック・バンドという場合、そのアルバムや楽曲などが次のような特徴をもつものをさすことが多い。

アルバム全体を一つの作品とする意識の徹底(コンセプト・アルバム)
大作主義傾向にある長時間の曲
歌が短く演奏重視で、インストゥルメンタルの楽曲も多い
複雑な曲構成(変拍子などの多用)
芸術性を重視した曲作り
クラシックやジャズ、あるいは現代音楽との融合を試みたものも多く、高度な技術を有する
シンセサイザーやメロトロンなどといった、最新テクノロジーを使用した楽器の積極的使用
今までにない独創的な音楽性(あるいは既存のプログレバンドの音楽性から強く影響を受けている)
上記の特徴は、ピンク・フロイド、キング・クリムゾン、イエス、エマーソン・レイク&パーマーなどのバンドが持つものである。おそらく、ピンク・フロイドの音楽をプログレッシブ・ロックと形容したのを皮切りに、その音楽と同様の特徴をもつキング・クリムゾン、イエスの音楽もプログレッシブ・ロックと呼ばれるようになり、これらのバンドの音楽の特徴である上記(の一部)を満たすものは、プログレッシブ・ロックである、と分類されていったのであろう。すなわち、多くの音楽ジャンルの定義と同様(あるいは多くの芸術様式の定義と同様)、プログレッシブ・ロックの定義は、演繹法的ではなく、帰納法的であるといえる。したがって、音楽自体は「先進的」・「前衛的」とはいえないが、上記特徴にあてはまるために、一般にプログレッシブ・ロック・バンドと呼ばれるようになった例もある。反対に、その音楽は十分に先進的、前衛的ながら、上記条件にあまり該当しないためにプログレッシブ・ロックにはカテゴライズされないバンドも少なくない。

上記のバンドのほかにヨーロッパでは、ソフト・マシーンをはじめとするカンタベリー出身のジャズ・ロック・バンドが体系したカンタベリー・ロックや、1960年代から70年代にかけてドイツで生まれた実験的な音楽を指すクラウト・ロックもプログレッシブ・ロックの一派とされる。一方、1970年代のアメリカでは、イギリスのプログレッシブ・ロックの影響を受けたカンサスやボストンなどが台頭し、アメリカン・プログレ・ハードというジャンルが誕生した。また、1990年代以降はドリーム・シアターなどによるプログレッシブ・メタルと呼ばれる音楽形態も生まれた。2000年代にはアット・ザ・ドライヴインから派生したマーズ・ヴォルタが登場し、パンク、エモを通過した新たな形のプログレッシブ・ロックを掲示した。

プログレの定義付けについては二面的な部分があり、プログレッシブ・ロック言葉をロックの一範疇(つまり音楽スタイルの一つ)という視点で考えると、上記の特徴に当てはまるものがプログレッシブロックとなる。ところが、本来の「プログレッシブ」(「先進的」・「前衛的」)という視点からすると、現在のいわゆるプログレがそれかというと、そうではないという意見もある。音楽自体が常にプログレッシブな面を持っているからであり、時代時代において表現の仕方、音楽が変化するのが当然だからである。プログレッシブハウスやプログレッシブトランスというスタイルも他ジャンルにおいて存在する。

全てのプログレという名の音楽に共通するのは、ロックなりハウスなりのそれぞれの音楽的基盤があった上でのクロスオーバーを身の上としていることである。そして、プログレかどうかは聞き手が決める場合も多く、本人はプログレのつもりでも他者が見ればプログレでなかったり、逆にプログレという言葉を知らないミュージシャンの音楽が、プログレとして評価が高いといったことも少なくない(キング・クリムゾンのギタリストであるロバート・フリップは、自身の音楽をプログレと定義されることを嫌っている)。

細分ジャンル [編集]
一言でプログレといっても様々な音楽性があることから、さらに細分化されたジャンル分けがなされているが、その多種多様性ゆえ、1バンド1ジャンルに近い状態になってしまうこともある。その場合、代表的なジャンルや有名バンド名を組み合わせて説明するケースもある(CDの帯タタキにてよく見られる。例として「アイリッシュトラッドの要素を持ったジャズロック」、「EL&Pを彷彿とさせるテクニカルロック」など)。

以下、主要な区分およびジャンルを記述する(国名がついたものは、音楽性的にも一定の共通性があるとされるもの)。

正統プログレ
主なバンド:キング・クリムゾン、イエス、ジェネシス、エマーソン・レイク&パーマー(EL&P)、ピンク・フロイド(以上5大バンド)、ルネッサンス、キャメル、ジェントル・ジャイアント
何を持って正統とするかという議論はあるが、70年代の英国のプログレバンドを正統とする意見がある。また、これらについては特に細分化されたジャンル名がついていないため、便宜上一括りにするケースもある。またこれらのバンド名を使い「○○系」というジャンル分けをする場合もある。
チェンバー・ロック
カンタベリー・ロック
主なバンド:ソフト・マシーン、キャラヴァン、ヘンリー・カウ、ゴング
1960年代後半にカンタベリーで結成されたワイルド・フラワーズを祖とする。この一派に共通する特徴をひとくくりに言い表すことは難しいが、複雑な変拍子や即興演奏を多用しジャズ・ロック色が強いものが、カンタベリー派の代表的な曲調とされる。
ジャズ・ロック
ポンプ・ロック
主なバンドマリリオン、ペンドラゴン、IQ
80年代初頭に英国で生まれたプログレで、70年代のプログレの復興の意味があったが、「先進的」という意味でプログレという言葉を使うにはふさわしくないとして、「華麗、盛儀(大仰)」という意味のPOMPと呼ばれるようになった。ただし、これは70年代のプログレを絶対視するファンが彼等をプログレと認めなかったという側面もある。キーボードを多用しプログレの華麗さ・美しさの要素を発展させつつ、ピンクフロイド的な内向性を持った歌詞世界を構築することもある。変拍子等のテクニカル的スタンスはあまり強くない。
テクニカル・ロック
プログレのテクニカル面を強調したジャンル。
シアトリカル・ロック
主なバンドクイーン、ミートローフ
ドラマ性のある大仰なロック。プログレにカテゴライズされないケースが多いが、プログレ的な要素として語られることがある。なお、プログレ的側面からこのように語られるバンドも普段は別のジャンル名で呼ばれる(たいていはハードロックやヘヴィメタル)ことが一般的で、これらのバンドのプログレ的要素を語る時に使われる用語である。
ハードロック
プログレが生まれた70年代はハードロックとプログレの明確な区分はなく、いっしょくたに語られることもあった。また共通する要素も多いため区分が今でもあいまいなケースもある。イエスやエマーソン・レイク&パーマー(EL&P)がハードロックとして扱われたり、逆にキーボードのジョン・ロードがハモンドを多用することからディープ・パープルがプログレとして扱われることもあった。
アメリカン・プログレ・ハード
曲の長さや難解さ・複雑さはほとんどなく、ポップな要素を持ち合わせているが、キーボードを多用し、幻想的な音作りがプログレを髣髴させることから、このように呼ばれる。音楽評論家の渋谷陽一がこの言葉をはじめに使ったとされている。米国のバンドが大半を占めるが、英国のエイジアもサウンド的には同様である。
プログレッシブ・メタル
イタリアンプログレ
ジャパニーズ・プログレ(ジャパグレ)
東欧プログレ
主なバンドアフタークライング、コラージュ、クィダム
幻想的で独特の雰囲気がある。東欧ならではの共通点があるのは、音楽機材がソ連製であったことと関係するとの見方もある。
クラウト・ロック(ジャーマン・プログレ)
主なバンドクラフトワーク、ノイ!、タンジェリン・ドリーム、アモン・デュール、アシュ・ラ・テンペル、カン
ドイツのプログレで、実験的な音楽性を持つ。電子楽器の導入やミニマルな曲展開を特徴とするバンドも多く、後のテクノ音楽にも影響を与えた。
トラッド・フォーク系
女性ボーカルもの
主な歌手ケイト・ブッシュ、エンヤ、岩男潤子
もともとはルネッサンスなどの女性ヴォーカルのプログレのことであるが、「プログレ的要素を人によっては感じ取れる」女性ヴォーカルのロック・ポップス・民族音楽を「プログレの一種」としてプログレ専門のラジオ・雑誌・CD店などが取り上げた。プログレとファン層が重なることもあり、一定の支持を受けている。「プログレ度合い」は、非常に高いものからこじ付け的なものまで様々である。声優が発表する音楽作品やゲーム音楽作品にスタッフとしてプログレ関係者が加わっていると、プログレと見なすことがある。
変態系プログレ
けっして、演奏者が変態というわけではない。変拍子やリズムチェンジ・転調等のテクニカル面・曲の複雑性・難解性を追求した結果、一見何が何だかわからないような状態にまでなっていった音楽を演奏するジャンル。好きな人は面白いと思うが、嫌いな人にとっては「曲ではない・音楽ではない」と思うなど、賛否が激しい。

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2009年03月25日

国鉄ホキ800形貨車

ホキ800形は、日本国有鉄道(国鉄)が1958年(昭和33年)から製作した 30 t 積の貨車(ホッパ車)である。

ホキ800形は国鉄が1954年から製作したホキ700形の改良型で、本稿ではそのホキ700形、および新幹線向けに国鉄が製作
砕石(バラスト)散布用のホッパ車である。営業用貨車の形式を称するが、実態は事業用(軌道保守用)である。

1954年から製作されたホキ700形は砕石散布機構が軌道の外側1方向のみ可能であったが、保線効率向上の見地からホキ800形ではこれを改良し、軌道の内側・外側・遠近の3方向に砕石を散布可能な構造としている。

1987年の国鉄分割民営化では、北海道旅客鉄道(JR北海道)東日本旅客鉄道(JR東日本)東海旅客鉄道(JR東海)西日本旅客鉄道(JR西日本)四国旅客鉄道(JR四国)九州旅客鉄道(JR九州)の旅客6社に承継され、引き続き保線・工事用途に使用されている。

形式別詳説 [編集]
この節は執筆中です。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。
ホキ700形
ホキ800形
1958年から1072両が製作された。うち12両 (1761 - 1772) は新幹線用の931形貨車から改造編入された。改造の詳細については後述する。

派生形式 [編集]
新幹線931形貨車
新幹線の軌道敷内にバラストを散布するための車両で、1962年 - 1977年に 126両 (1 - 126) が製作された。旧形式は3000形である。車体の仕様はホキ800形と同一で、台車のみ標準軌用の専用品を装備する。
台車は製作年次による仕様の変更があり、1964年までに製作された車両 (1 - 63) は枕バネに重ね板バネを用いた TR8000 形を、1970年以降に製作された車両 (64 - 126) は軸受を密封形コロ軸受に変更した TR8006 形・TR8006B形 を装備する。台車の仕様は在来線用のTR41形(前期車)TR209形(後期車)に相当する。
当初、東海道新幹線開業に伴い1964年までに国鉄浜松工場で63両 (1 - 63) を製作した。初期の60両 (1 - 60) は旧形式3000形で完成し、931形 (1 - 60) に改称している。
以降も新幹線の延伸とともに追加製作され、新大阪以西の山陽新幹線延伸工事に伴い1970年に15両 (64 - 78) 1973年に38両 (79 - 116) を製作した。1973年製の一部(12両)は後年に東北新幹線工事用として転用され、1977年には東海道新幹線区間用の増備車として 10両 (117 - 126) が製作された。これら追加製作車は川崎重工業の製作である。
1967年には3両が936形(軌道敷内散水用タンク車)に改造され、12両が在来線用貨車ホキ300形と台車を交換してホキ800形に編入改造されている。
1987年の国鉄分割民営化にあっては、東海道新幹線用としてJR東海に60両が、山陽新幹線用としてJR西日本に35両が承継された。それぞれ自社管理の新幹線区間において、引き続き軌道保守用として使用された。JR東海の所有車は1993年に車籍を抹消され、以降は車籍のない機械扱いとして夜間の作業に使用される。JR西日本の所有車は引き続き車籍を有した状態で残存している。

譲渡車・同形車 [編集]
本形式は国鉄・JR各社のみならず、各地の私鉄に譲渡された車両が存在する。一部の事業体では同一設計で製作された車両を保有しており、共に保線工事などに使用されている。

本形式の譲渡車 および 同形車の使用歴を有する事業体を以下に示す。

弘南鉄道
八戸臨海鉄道
上信電鉄
西武鉄道
富士急行
伊豆箱根鉄道
大井川鐵道
遠州鉄道
名古屋鉄道
富山地方鉄道
近江鉄道

ジョブコー ダーポポ プライ オール ハンドグ フェア はずたか タフガ シミュレ 冬の花 ポテト トゥー ハンカ ハシェマ やまふじ インレット ゆずの里 カガシ マンシェ ナサラ ヌクレ 検索モミ カラカス スピー オリジナ 水菜 ビジョン ズーム マウンテ ドレス トカマク ムギセ ベニバ グラソース キング コード オパール オーセン クール ランボ たてじょう ブラゾーン おおみ リンス バロキ スノー ドウェー プレス プロペ いぬまき

2009年03月09日

ヴァルター・グロピウス

ヴァルター・アードルフ・ゲオルク・グロピウス(Walter Adolph Georg Gropius, 1883年5月18日-1969年7月5日)は、モダニズムを代表するドイツの建築家。近代建築の四大巨匠(ル・コルビュジエ、フランク・ロイド・ライト、ミース・ファン・デル・ローエと共に)の一人とされる。バウハウスの創立者であり、1919年から1928年まで初代校長を務めた。

1883年5月18日、ベルリンに生まれる。カルル・フリードリッヒ・シンケルの弟子であったマルティン・グロピウスの大甥に当たる。

1903-1907年にミュンヘンやベルリンの工科大学で建築を学んだ。卒業後、ペーター・ベーレンスの事務所に入り(1908-1910年)、そこでミース・ファン・デル・ローエと出会っている。ドイツ工作連盟にも参加した。1911年の作品、『ファグスの靴工場』は、後のバウハウス校舎を思わせる鉄とガラスを用いた初期モダニズム建築であった。1915年、ヴァン・デ・ヴェルデからヴァイマルの工芸学校を託された。1919年に統合され国立バウハウスが開校すると、グロピウスは初代校長となった。当初は総合芸術としての建築教育を目指すものであったが、カンディンスキーらのアヴァンギャルドな造形教育の場となった。『ヴァイマル・バウハウス校長室のインテリア』(1923年)は、モダンデザインによって統一された空間であり、記念碑的作品とされる。

やがてヴァイマルのバウハウスは閉鎖され、1925年にデッサウに移転、デッサウ市立バウハウスとなった。『デッサウの校舎』(1926年)はグロピウスの設計によるもので、著書『国際建築』(1925年、バウハウス叢書第1巻)とともにモダニズム建築の代表作として世界中に知られるようになった。また、デッサウ市の依頼で、郊外に集合住宅(ジードルンク)を建設した(1926-1928年)。グロピウスはハンネス・マイヤーを後任に指名し、1928年に校長を退いた。1930年頃にはベルリンの集合住宅建設に当たった。バウハウス閉鎖後、事務所にいた山口文象とともにドイツを脱出、自身は1934年イギリスに亡命する。

1937年、ハーバード大学に招かれ、アメリカに赴いた。ここでI.M.ペイ、フィリップ・ジョンソンらを育てた。また、共同設計事務所TAC(The Architects Collaborative)を設立。超高層ビルのパンナムビル(1958年、現メットライフビル。ピエトロ・ベルスキらと共同設計)などを設計した。

1969年7月5日、マサチューセッツ州ボストンにて86歳で死去。

評価
グロピウスは著書『国際建築』(1925年)で、造形は機能に従うものであり、国を超えて、世界的に統一された様式をもたらすと主張した。1926年の「バウハウス校舎」は、まさにその実例となることを意図して設計された。1932年にフィリプ・ジョンソンの企画によりMOMAでインターナショナル・スタイル(国際様式)の展覧会を企画し、建築界の主流になっていった。
バゲット クス ポイント ヌガー ソリッド 一石二鳥 ミックス ランウエー アヨーチン ブルペン ステーク ドンファン フィル 検索クワ ギガス おじまじ タンポン カレンシー ぼうふう トリグ シャーマン シシャパ キトサン タウリン フィー リーキ シシカバブ バーガー モダンアート セントラ ヒンドゥー フレッ サイゴン 王様検索 フルネュ ナロー ひみつり オーバ カーフェリ サーベイ レジェンド サー油 マイタ かぶらや デミタ ラジエ スター ダンサー テンキー イニング

アメリカ移住後のグロピウスの実作はそれほど多くないが、大学教育を通じてアメリカにおけるモダニズム建築の普及に影響力を持った。超高層ビルにおけるインターナショナル・スタイルの普及は、ミースやSOMの手にゆだねられた。

その他
アルマ・マーラーとのスキャンダルでも知られる。

著書の邦訳は、<バウハウス叢書> 中央公論美術出版で刊行されている。 

『国際建築』 貞包博幸訳 バウハウス叢書1 1991年
『バウハウス工房の新製品』 宮島久雄訳  バウハウス叢書7  1991年
『デッサウのバウハウス建築』 利光功訳 バウハウス叢書12 1995年

2009年02月20日

コロニーレーザー

コロニーレーザーは、アニメ『機動戦士ガンダム』を始めとする「ガンダムシリーズ」に登場する、架空の兵器。

円筒型で窓が無いタイプ(密閉型)のスペースコロニーを改造して、巨大なレーザービームの照射装置としたもの。もしくはそれに類する大量破壊兵器。ガンダム世界においては他に類を見ない射程距離と破壊力を持つが、大量の電力を必要とし、連続しての使用は困難である。実在する技術の延長のみで実現可能なので、その点からのリアリティも作品中での印象を強めた。
じんのおび トップライト テドラル なかよし ナベラル モルグ ベニデュ ムード フォワグ ビアガ 芽キャベツ セーラー ローレライ ビーフ シャッター トリノ むぐらふ ノッポ リップ チェン デコレータ サカユ ききょう キウイ デッド ハイウェイ ブロック シリーズ フィクシ ミレニアム リチェ リスチン かくぐう ラウィ フワン フラグ サーチトゥ ニック スポット レーベル 迷い道 カエサ タピオカ リトライ オブソ ソフトテニ ナンス カシミ プルーン おびひろ

ソーラ・レイ(機動戦士ガンダム)
地球連邦軍の星一号作戦の際に、ジオン公国の最終兵器ソーラ・レイとして登場した。サイド3のマハルと呼ばれるコロニーを改装した巨大レーザー砲で、電力確保には多数の太陽電池パネルを展開する必要があった。

作中、稼動原理は不明のままだったが、後に書籍によってシリンダー内にアルゴン等を充填してレーザーを増幅させる化学レーザーと設定された。建造時期は資料によってまちまちであり、小説版・TV版・映画版ではソロモン陥落直後にマハルコロニーから住民を強制疎開させ、数日間の突貫工事で完成させたとあるが、開戦直後から改装を行っていたとする資料もある。消費電力は8500万GW/秒という膨大なものである。ただし、一度発射すれば砲身の冷却やエネルギー充填などに1週間?10日は掛かると言われており、事実上、1発しか使えなかった。なお、TV版や映画版では偏向ミラーがテスト用で一度しか使えなかったとなっている。小説版では連射が可能であり、さらに掃射も可能であった。また、かなり距離の離れているソロモン(当時コンペイトウ)を正確に狙撃できたことから、照準性能、および射程距離もTV版・映画版に比べて向上しているものと思われる。

レーザー照射はあらかじめ設定されていた3つの照準コースのうちゲル・ドルバ照準で行われ、その巨大な威力により、最終決戦直前に地球連邦軍の宇宙艦隊の30%を消滅させ、決戦に向けて移送中だったソーラ・システムも破壊した。また、この攻撃によってレビル将軍とデギン・ソド・ザビが戦死した。より効果的な照準コースに設定していれば侵攻してくる連邦艦隊の半数を撃破する事も可能であったが、地球連邦との和平工作を推し進めるデギンを邪魔だと判断したギレン・ザビは、デキン殺害を優先した。しかし、後にこの事を知ったキシリア・ザビによってギレンは射殺されてしまう。最終兵器と銘打っているが、作中ではザビ家の内部抗争を象徴する兵器という描写がなされた。この兵器の使用を察知したアムロ・レイは「憎しみの光」と表現している。

小説版では隠蔽目的のためか「システム」という隠語で呼ばれており、これを使った連邦艦隊迎撃作戦を「リヴォル1」と命名していた。最初の発射で連邦艦隊カラル隊を壊滅させ、ア・バオア・クーも、これを盾にしてレーザー発射を避けようとした連邦軍本隊(レビル艦隊)もろとも二度目の発射で破壊(二度目の発射にはキシリア殺害という目的も含まれていた)。「地球連邦宇宙総軍は壊滅、ジオン軍も半身不随」となる損害を与えて戦争の大局に決着をつけている。

グリプス2(機動戦士Zガンダム)
ティターンズにより建造された兵器。ソーラ・レイの欠点だったエネルギー充填システムを改良し、チャージ時間を大幅に短縮する事に成功している。ティターンズの戦略開発拠点だったサイド7のグリーン・ノア2の2つあるシリンダーの1基を改装したのでグリプス2と呼ばれる。また、核パルスエンジンを有し、目標狙撃ポイントへの移動が可能になっている。レーザーの稼動原理は不明だが、シリンダー底部に真空管を巨大化させた形状のレーザー発信機が多数設置されている。

その強大な威力が戦局を左右するとみなされ、各勢力に制圧目標とされた。まず、建造したティターンズに対してエゥーゴとアクシズが共同作戦を行い、結果的にアクシズがコロニーレーザーを奪取する。しかし、直後に行われたメールシュトローム作戦によってエゥーゴがコロニーレーザーを入手。その後は損傷による放棄までエゥーゴの勢力下にあった。

作品中では3回(劇場版では1回)使用されている。まず、ティターンズが完成後のテストとスペースノイド(宇宙移民者)への恫喝を兼ねて30%の出力で発射し、サイド2の18バンチコロニーを破壊した(コミックボンボン版では、全力発射で4基のコロニーを同時に破壊している)。第2射はエゥーゴによるもので、グラナダへの落下コースに入っていた小惑星アクシズをレーザーで狙撃、アクシズの軌道を変えてグラナダへの落下を防いだ。最後に、エゥーゴによりティターンズとの最終決戦時に55%(小説版では38%)の出力で発射され、ティターンズの主力艦隊を壊滅させた。その後、機関部分が損傷した為に放棄される。劇場版ではこの発射シーンしか使用されておらず、先の2回はカットされた。

レーザーの軌跡が見えるのは戦闘宙域が(恐らくミノフスキー粒子や兵器の残骸等で)「汚れている」ためであると小説版において記述されている。

シンヴァツ(機動戦士クロスボーンガンダム 鋼鉄の七人)
木星帝国が建造した兵器。木星圏から地球を直接攻撃する『神(ゼウス)の雷』計画に基づき建造された。名前の由来は「神罰」だと思われる。

劇中一度地球に向けて発射されたものの、発射直前にトビア・アロナクスら新生クロスボーン・バンガードの必死の攻撃により僅かに発射角に狂いが生じ、地球に直撃することを防いだ。その後、光のカリストの命により再発射を強行しようとするが、砲口から内部に突入したトビアらによってミラーを破壊され、ビームを収束できず自壊した。

アフターウォーでの使用例
コロニーレーザー(機動新世紀ガンダムX)
第7次宇宙戦争当時に宇宙革命軍が開発途中で放棄していたものを、戦後に完成し地球に直接撃ち込む為に投入される。それに続けて地球侵攻を行う「ダリア作戦」が予定されていたが、ガンダムダブルエックスのツインサテライトキャノンにより発射直前に破壊されている。

2009年02月04日

三村氏(みむらし)は備中を支配した戦国大名

三村氏(みむらし)は備中を支配した戦国大名。同流・信濃三村氏と区別するため、俗に備中三村氏ともいう。家紋は剣方喰・丸に三柏など。
チャージ タラソ パント トレード 赤ランプ ヒョウ ナブラ ブルマナ スラト トムトム あしたば おれたち シュズ ルームメ カミオ シシュフ パナマ ダウン すだち ダイナ オカル チンギス リージア ネオジ つるが リニティ バップ オロシ かいづか あつま 石榴 ジエンド プレッ ラウンジ ドロップ ビクー ひらら ビノク シェーカー ラタトゥ 麦わら イキシア パッチ ウイロ 麦わら帽子 単発ガ ネイビー ライフ ムスリム ロベリア

もともとは常陸国筑波郡三村郷の開発領主もしくはその縁者と思われ、鎌倉幕府の一御家人に過ぎなかった。

吾妻鏡では、『親』を通し字とする数名の三村氏が既に確認できる。

伝承によれば、小笠原長経三男の長時(「長持」とする小笠原系図も一部にあるが、写本時の誤記であろう)が常陸国筑波郡三村郷に移り、その子・親時の頃より三村氏を称したという(とはいえ、三村氏を称した時期については諸説ある)。

三村郷には小笠原長時の叔父にあたる小田五郎清家がいたとされ、その関係で長時は三村郷に縁が出来たのではないかとも言われる。

常陸国筑波郡三村郷を苗字発祥の地とする小笠原長時の子孫は、承久の乱後に信濃国筑摩郡洗馬郷(せばごう、せまごう)の地頭(いわゆる新補地頭)になったとされる(信濃三村氏)。この係累は後庁氏など分流を派生しつつ、以後小笠原氏家臣・武田氏家臣として、信濃を中心に一定の活躍をみた。

その信濃三村氏の一流が鎌倉後期までに備中星田郷の地頭(新補地頭)となって当地に移住したことにより、備中三村氏の歴史が始まる。

いわゆる西遷御家人である。

鎌倉後期?戦国期
鎌倉後期以降長らく、備中三村氏は星田郷や成羽を支配する備中の一豪族に過ぎなかったが(国人化していた)、16世紀前半に三村宗親が分流である石蟹氏などと対立しつつも徐々に勢力を伸ばす。

息子三村家親の代には毛利氏の後ろ盾を得て備中をほぼ統一し、備前や美作においても部分的に勢力下・支配下におさめ、戦国大名として名を轟かせる。

その後も家親は備前や美作へのさらなる勢力拡大を図るが、1566年には鉄砲に精通した阿波出身の遠藤兄弟を利用した宇喜多直家によって暗殺されてしまう。

家親の死後、宇喜多氏との兼ね合いもあって、庄氏一部の叛乱を許すなど一時三村氏は衰退するも、勢力を盛り返した。しかし、三村氏不倶戴天の敵である宇喜多直家と毛利氏が(吉川元春の強固な反対を押し退けて)安国寺恵瓊・小早川隆景の仲立ちによって同盟関係を結んだことに端を発する1575年の備中兵乱において、毛利氏に攻めに攻められて(宇喜多氏は備中兵乱最後の山場である備前常山城攻めなどで、辛うじて僅かに出兵したのみ)、家親の子・三村元親は自害。戦国大名としての三村氏は滅亡した。

元親に近い血筋の者は,毛利氏方についた三村親成などの係累を除き,因幡・阿波・讃岐等各地に落ち延びていった。二松学舎大学創立者で皇室への出入りのあった漢学者三島中洲(毅)を初めとして,三村氏子孫を称する家系は備中地域などに少なくない。

江戸期
三村親成の系統は、水野勝成との縁故(二度に亘り寄食させ、養女(実は三村家親の末娘)を正室に娶らせた)から備後福山藩家老職を務めた。他に岡山藩に仕官した系統などもある。

上田實親の遺児三村勝親・三村吉親のうち、前者の系統は讃岐高松藩士となり、後者の系統は幕末の備中松山藩士三島中洲家となった。

この他にも江戸期において藩士として禄を食んでいた三村氏子孫の系統は数家あったようである。

備中・信濃両三村氏の関係
備中三村氏・信濃三村氏の関係については不詳とする文献もある。特に備中三村氏が初期に本拠地としていた星田郷などが「三村荘」と呼ばれる荘園内に属したと考えられることから、備中三村氏の苗字発祥の地(本貫地)を「三村荘」と比定する説も流布している。

しかし、両三村氏はともに(1)家紋(剣方喰・丸に三柏など)・(2)通字『親』(ちか)を長きに亘って共通としており、(3)備中三村氏の根拠地である備中星田郷周辺には「洗馬」に通ずる「洗場」の地名がある(地名遷移)。また(4)信濃三村氏子孫においても、苗字発祥の地を常陸国筑波郡三村郷と伝え、小笠原氏分流を称する家がある。(5)備中三村氏が西遷御家人子孫であると室町期の国人間でも認知されていた。

これらのことから、両三村氏は同流・同族と見て間違いないであろう。三村家親なども神社をわざわざ信濃より勧請しており、信濃に深い縁故を感じていたふしがある。

なお、備中三村氏が古くから小笠原氏分流を名乗る一方,現に信濃小笠原氏臣下にあった信濃三村氏は源頼親子孫などとも称している。

系譜
  源義清
 ┏┻━━━━━━━━━━━━┓
加賀美遠光        武田清光         
 ┃  
小笠原長清  
 ┣━━━━━━┳━━━━━━┓
小笠原長経  伴野時長  大井朝光
 ┣━━━━━━┓      
小笠原長忠 小笠原(三村)長時(住常陸国筑波郡三村郷)     
┃ 
三村親時
        ┃ 
親屯(信濃国筑摩郡洗馬郷)
        ┃ 
親實(備中国小田郡星田郷)
        ┃      
能實
        ┃          
親経
        ┃           
親基
         ┃  
親隆

時親
┃  
宗親   
┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━━┓
      家親                            親成          親頼                                  
┏━━━┳━━┻┳━━━┳━━━┳━━━┓          (備後水野福山藩家老家祖)
庄元資  元親  元範 上田實親 元高  於柵(水野勝成正室) 

備中三村氏一族
三村能實
三村宗親
三村家親
三村元親
勝法師丸
三村親成
庄元祐(元資)
三村元範
上田實親
上野隆徳
鶴姫(上野隆徳室)
三村親宣
三村親良
三村親安
三村親澄
石川久智
石川久式
三村政親
於柵(備後福山藩初代水野勝成正室)

備中三村氏を扱った主な書籍
新釈 備中兵乱記
備中兵乱 常山合戦
鬼哭の城(きこくのしろ)
瀬戸の軍狼
女甲冑録
おんなたちの戦国史 武将を支えた21人
備前児島と常山城 戦国両雄の狭間で

その他の三村氏
南北朝時代に新田義貞の叔父新田俊信が出羽に逃れた後の子が、三村頼信という。ただし、北朝に敗れた後身を隠すために東海林俊久を名乗っており、三村氏は一度消滅している。その後彼の次男の家系が南北朝合一後、源氏一門として三村氏を名乗った。

三村 能実(みむら よしざね、生没年未詳)は、鎌倉時代後期から室町時代初期において、備中国星田郷を根拠に活動した在地武士。備中三村氏の一族。幼名孫次郎。三村時太郎親実の子という。

三村氏は、鎌倉時代後期までには信州洗馬郷より備中星田郷に地頭として入部し、活動していた(新補地頭)。

能実の位置づけとしては、星田郷に根拠とする小武士団三村氏の惣領であったと見るのが自然であろう。

『太平記』巻七「船上合戦寺」に、元弘3年(1333年)、配流先の隠岐島より脱出した後醍醐天皇が伯耆国船上山に立て籠もった際に馳せ参じた諸将として「備中ニ新見・成合・那須・三村・小坂・河村・庄・真壁」とあり、この「三村」こそ三村能実という。

建武3年(1336年)、三村能実は足利直義から備中星田郷を所領安堵され、改めて地位の確認を受けている。

三村 宗親(みむら むねちか、生没年不詳)は、戦国時代中後期の備中国人。備中三村氏の一族で三村家親の父。備中成羽鶴首城主。新左京亮。

成羽・星田などを保持する国人領主であったとされるが、いわゆる嫡宗であったかどうかは不明。

永正5年(1508年)に大内義興が足利義尹を奉じて上洛した際に、従った武将として守護代である石川氏・荘氏とともに三村宗親の名が見られる(陰徳太平記)。この頃までには守護代衆と比肩できうる力を国人衆としてつけていたらしい。

永正14年(1517年)には、多治部氏や伊達氏とともに新見庄へ攻め入っている。

法名を源樹大居士と伝える。

三村 家親(みむら いえちか)は、備中の戦国大名。備中松山城主。

家系
三村宗親の子で、三村盛親(三村時親)の孫である。なお、正室はお互いに小笠原氏分流を称していた阿波三好氏の娘で、三村元親や小説『鬼哭の城』の主人公である上田實親の母にあたると言われている。

生涯
永正14年(1517年)、三村宗親の子として生まれる。

備中においては守護家である細川氏の威光が早くから衰えており、その中においてはじめは庄氏と連携しつつ、のちには争いながら勢力拡張を図った。庄氏との勢力争いに行き詰まり、尼子氏方だらけの備中国人としてはおそらくはじめて毛利氏を頼った。毛利元就は家親をかなり評価していたらしく、三村氏からの使者に「備中一国はこれで毛利のものとなったも同然である」という趣旨の言葉を発して喜んだという。

毛利氏と手を結んで以降、備中における尼子氏の勢力を次々と駆逐し、備中をほぼ統一する。拠点を備中成羽の鶴首城から備中松山城に移し(毛利元就書状)、鶴首城を重臣・三村親成に任せる。この間、備中守護代家である庄・石川・上野などの諸氏と積極的な縁戚関係を構築したが、庄氏だけはその一族を完全に取り込めず、遺恨となる。さらに勢力を拡大すべく、備前や美作に侵攻し、勇猛をもって宇喜多直家を打ち破ること数度に及んだが、永禄9年(1566年)2月5日、美作の興善寺に滞在して重臣一同と評議中、直家の命を受けた遠藤又次郎、喜三郎兄弟に短筒の火縄銃で打たれて死亡した。享年50。当時としては珍しい鉄砲による暗殺である。

長男の庄元祐はすでに庄氏に養子入りしていたことから、次男の三村元親が跡を継いだ。

なお、家親の墓は源樹寺や頼久寺(ともに岡山県高梁市内)など数箇所に在る。

2009年01月21日

テニスやスカッシュのそれと同じように

バドミントンのラケットは、テニスやスカッシュのそれと同じように、フレームにストリング(ガット)を張ったフェースと呼ばれる部分で球を打つ構造となっている。以前はフレーム部分が木製でたいへん重く、木材の歪みを防止するために、使用後は専用の器具で固定しておかなければならなかった。ストリングには動物の内臓など(通常ヒツジの腸、ストリングの別名のガット(英語で内臓の意)の語源でもある)が使われていた。今日では技術の進歩により、以下のようになっている。

フレーム
全長で680mm以内、幅は230mm以内と規定されている。
カーボン繊維を中心に、複合素材としてチタン等の金属が使われている。後者は主にラケットヘッドのねじれを低減したり、重量バランスを調整したりする用途で用いられる場合が多い。ケブラー等の素材が使われているものもある。
木製→金属製→カーボン製と材質が軽量化、高弾性化したことで、選手のフォームが肩を中心としたスイングから手首や指を使うものへと変化し、その結果、打球やゲーム展開が高速化した。また、ストリングを高テンション(張りの強さ)で張れるようになった。
金属製のラケットはヘッドとシャフトが別々になっているものが多く、そのようなものはT字型の部品で固定されている。フレームとシャフトが異種素材であるものも同様である。ただしこのようなラケットは、消耗と共に抜けやすくなるため、中学生の大会では使用できないらしい。
従来の卵形のヘッドのラケットの他に、ヘッドの形状をやや四角型に成型し、中央部のストリングスが長い部分を増やすことで、スイートスポットと呼ばれる快適に打つことが出来る部分を広げたラケットが、各メーカーで製造されている。現在では、後者がむしろ主流となりつつある。
 近年、ナノテクノロジーやゴムメタルを採用した高反発、軽量なラケットも登場している。

が張ってある部分をストリングド・エリアという。その部分の大きさは、縦280mm以内、横220mm以内と規定されている。
ナイロンなどの化学繊維を細かく編んだものが主に用いられている。
ストリングのテンションは低くて20ポンド弱、高くて30ポンド強である。高テンションで張ると打球音がよくなり、インパクト時のブレが少なくなるためコントロール性が向上するが、ある程度パワーや技術が無ければシャトルが飛ばなくなり(スイートスポットが狭くなる)、また肘などへの反動も大きくなるため、上級者ほど高テンションで張ったラケットを使う傾向がある。ただしプレースタイルにもよる。
ストリングは縦糸・横糸共に22本ずつであり、縦糸の左右最後の一本は穴(グロメットホール)を一本飛ばして通す。ただし検定品でない安価なラケットの場合はストリングの本数がいい加減なものもある。

ハンドル(グリップ)
多くは木製で、それを土台としてシャフトを埋め込み、釘で固定してある。
ハンドル(手で握る部分)にはほとんどの場合、合成レザーのグリップテープが最初から巻かれている。ただしグリップ性能の問題からそのままの状態で使用するプレーヤーは少なく、レザーの上にポリウレタン等でできた別売りのグリップテープ(オーバーグリップ)を重ねて巻いたり、レザーを剥がして木の上に直接グリップテープを巻く人が多い。
オーバーグリップには大別してポリウレタン製のものとタオル地のものとに大別される。ポリウレタン製のものはよく延びるため太さの調節もしやすく、糊などは使わずにテープ一枚で固定できることから取替えも手軽であるため、多くのプレーヤーが使用している。中にはフィット感を高めるために、ウレタンの凸凹がついている物もある。一方タオル地のものは、表面がタオル上の布の裏に両面テープがついており、それをハンドル部分に貼り付けて使用する。汗をよく吸うため、手のひらに汗をよくかく人が好んで使う。また使っているうちに、タオルが手の形になじんでくる点も好まれている。ただし使っているうちに硬くなるので、耐久性の面ではポリウレタン製に劣る。

その他
余談だが、現在のバドミントンラケットはその軽さとガットの網目の細かさが手ごろであるため、スズメバチなどの大型の虫を駆除する道具の一つとして使用されることもある。

ウェア(ユニフォーム)
バドミントン競技は、動きが激しく、また、それにより多くの発汗を伴うため、伸縮性・吸湿性・速乾性・防臭性などが優れた高機能素材のウェアが好まれ、選ばれている。
以前は白地でなければならない等のルールがあったため、非常に地味でファッション性の乏しいウェアが多かったが、規制が緩和された現在ではカラフルなウェアを使用できる。
日本国内の公式大会で着ることができる色つきのシャツやパンツなどは、日本バドミントン協会の検定審査合格品でなければならない。検定審査合格品でないウェアは、「見苦しい服装」として失格処分となる可能性がある。ただし上下とも白で無地のものは、検定審査合格品でなくとも使用できる。
2000年代初頭まではショートパンツは前ファスナー付きのものが多かったが、現在はジャージ形式のものが主流である。一方、ゲームシャツはポロシャツを使用することが多い。

シューズ
バドミントンはストップ&ダッシュの連続でフットワークの技術も特殊であるため、ほとんどの場合で専用の屋内用シューズを使用する。特に踵の部分のショック吸収性と、左右の動きで生じるズレやつぶれ等に対する強さに重点を置いているものが多い。

技術
バドミントンにおいて必要な技術は、まずラケットでシャトルを打つ技術(ラケットワーク)と、無駄の無い動きで素早く追いつくための技術(フットワーク)が必要である。詳細はバドミントンの技術を参照。

歴史

バドミントンの誕生
諸説あるものの、最も有力とされている説は次の通り。元々は1820年代にインドのプーナで行なわれていた「プーナ」(Poona)という皮でできた球をネット越しにラケットで打ち合う遊びを、当時イギリスの植民地であった、インドから帰ってきたイギリス人兵士(イギリスとインドの混血とも)が1873年に本国に伝えたのが始まりとされる。その兵士は、プーナを紹介するためにシャンパンの栓に鳥の羽根を刺したものを用い、それをテニスラケットで打って見せたという。紹介されたのがイギリスのグロスターシアのバドミントン荘という邸宅であったため、バドミントンという名称がついた。(ただし、1870年代にはかなり進んだバドミントンルールが存在したことなどから、この起源説に対し、疑問を持つ者も少なくない。ラグビーの起源の話のように、スポーツの起源というものは往々にして脚色されがちであり、注意が必要である。)

また、英国にはバドルドーアンドシャトルコック(バドルドアアンドシャトルコックとも)という、シャトルコックに似た球を打ち合う遊びがプーナ伝来よりも遥かに昔から伝わっている。その競技の性質や、名前などから、バドルドーアンドシャトルコックが次第にバドミントンへと変化していったという説も信憑性が高い。初期のバドミントンはバドミントン・バドルドアと称していることも、この説を裏づける。ともあれ、1860年代-1870年代ごろに誕生したらしいバドミントンは次第にイギリス中に普及していった。

その後、1893年、ルール統一の必要性から、イギリスにバドミントン協会が誕生。プレーする人数や、コートの広さ、マッチまでの得点などがまちまちであった状況から、これ以後、段々とルールの統一が進んでいく。そのころまでにはバドミントンはマイナーではあるものの、そこそこ普及していたという。当時のバドミントンは、バックバウンダリーラインから、ネットに向けて狭くなっていく、バスケットボールのフリースローレーンのような形のコートを2つ合わせたような形であった。これは、バドミントン荘がそのような形状であったから、というのが定説である。

1899年にはロンドンで第一回全英選手権が行われ、1921年にカナダ、1930年にデンマーク、オランダ、フランスにバドミントン協会が設立され、そして1934年に世界バドミントン連盟が誕生した。

日本での普及
日本では1921年、横浜YMCAの体育主事をしていた広田兼敏氏が名誉主事のアメリカ人スネード氏から用具一式を寄贈されたことが始まりとされている。広田氏はその後、在日欧米人よりバドミントンについて学び、1933年に横浜YMCAの体育活動に取り入れ、1937年にはバドミントンクラブを設置したという。

その後、第二次世界大戦のために普及活動は停滞するが、1946年、終戦後早々と各地のYMCAなどのクラブチームはバドミントンを再開した。同年、11月2日、日本バドミントン協会が設立される。1948年、第1回全日本総合バドミントン選手権大会開催、日本体育協会に参加。1949年、第四回国民体育大会の競技種目となり、1950年第一回全日本学生バドミントン選手権開催、1951年第1回全国高等学校体育大会バドミントン競技大会開催、第1回実業団バドミントン選手権開催、1952年国際バドミントン連盟加盟と、急速にバドミントンは普及する。
サイコ チューブ イニシャ コムデ ティーチ カクレミノ ビヨウ クロの景色 シェード テスト プラコ ノーヒッタ チャンピ シンタ シンパシー ジストニア カオリン リール ハイラ ガーター バブリ アセロ ダガナ くしがき ヒロイズム マジック さじ日本 テスラコイ ナイトツア トリップ でぃるは パーゴラ あせろら ファルス オーバ オーソラ ネイリ ビルジ マッチ ライト トスト チっつぐ ジャカー 真実の泉 フレッシ ミゼット レーション ケルシ 無情 ブーツ


1954年男子チームが初の国際大会となる第3回トマス杯大会アジア地区予選に出場。また、女子は湯木博恵などを中心に1965年-1966年、1968年-1969年、1971年-1972年、1977年-1978年、1980年-1981年に、最も権威ある国際大会の一つであるユーバー杯で優勝するという快挙を成し遂げた。

近年のバドミントン
1972年のミュンヘンオリンピック、1988年のソウルオリンピックでは、公開競技として行われた。1992年のバルセロナオリンピックより正式競技種目として採用され、以後、2012年のロンドンオリンピックまで、実施予定競技として決まっている。

国際バドミントン連盟(IBF)は、オリンピック種目として生き残ることを視野に、2000年から 7点5ゲーム・サイドアウト制の試行を始めた。この得点システムは2002年6月に見直され、元の15点(女子シングルスは11点)3ゲーム・サイドアウト制に戻された。

2003年3月に、イングランドの呼びかけで開かれた IBF臨時総会では、9点5ゲーム制、女子種目と混合ダブルスの11点3ゲーム制(いずれもサイドアウト制)などが検討されたが、再び旧ルールに戻る結末を迎えた。

2005年は、IBFの提案により、新しいルール、試合時間が短くなりテレビ放映に有利で、ラリー毎に集中することが見込めるラリーポイント制について、実験的採用が行われた年となった。

2006年5月6日、トマス杯ユーバー杯開催中の日本の東京で開かれた IBF年次総会において、21点ラリーポイント制の得点システムが加盟各国理事に満場一致で支持され、2008年の北京オリンピックを含む IBF の世界ランキング大会は、これで行われることが正式に決定した。

2006年9月、国際バドミントン連盟は、世界選手権開催中のスペインのマドリードで開かれた臨時総会において、名称を 世界バドミントン連盟(BADMINTON WORLD FEDERATION・BWF)に変更することを決め、発表した

2009年01月14日

フェイトは魔法世界と現実世界とを結ぶゲート

魔法世界(21巻以降)
フェイトは魔法世界と現実世界とを結ぶゲートを、ただ一つを残して破壊してしまった。ネギま部はそのすべての罪をなすりつけられ、お尋ね者となる。さらに、何も知らずについてきた生徒の内、3人が借金を抱えこまされ奴隷にされていた。変装もかねて、大人の姿になっていたネギと小太郎は拳闘士になり、拳闘大会の賞金で彼女たちの借金を返済することを目指す。目標は、最後のゲートが残る廃都オスティアで開かれる大会での優勝であり、他の仲間もオスティアでの合流に向けて動き始めた。
このときネギは自分の実力ではフェイトを打ち負かすことができないと一人悩んでいた。ある日、ナギの友人(自称・永遠のライバル)であるジャック・ラカンと出会い、彼の弟子となる。彼はさらなる力を求めるネギのために、エヴァンジェリンが編み出した禁呪「闇の魔法」の巻物を手渡した。一度は躊躇するものの、これ以外に方法はないと覚悟を決めたネギはその危険な試練に挑み、習得する。

以上で物語・作品・登場人物に関する核心部分の記述は終わりです。

人気投票と魔法の世界
この漫画は前述の触れ込みの通りヒロインが31人という大所帯のため、当然各キャラクターの登場回数には大きな差が出てくる。そこで重要になってくるのが通称「ネギ・プリ」というマガジン本誌で行われる人気投票であり、2008年3月までに7回開催されている。

これは単なる人気投票ではなく、その人気に応じてキャラクターの登場頻度が決まっていくというものであり、例えば第1回の人気投票で1位となった佐々木まき絵の登場頻度は当初の予定から大幅に変更された。ただ、現在では各キャラの立ち位置や登場予定はほぼ決まっており、人気投票結果による大幅なストーリー変更は考えていないという作者コメントもある。

また、本編の言葉を借りれば「魔法の世界に足を踏み入れ」られるかどうかが重要なポイントで、最初は似たような扱いのキャラでも一般の人間には知られてはいけないとされている魔法の存在を知ったか否かで、ストーリーの中核部分に関われるか、脇役として取り残されるかの明暗が分かれることとなる。

本作品における魔法
以下、本作品における魔法等の概要について述べる。作中に登場する個々の魔法・技については、原作単行本各巻の付録に詳細な解説がある。

基本事項
魔力と気
作中における魔力とは、水や空気等、人間の周囲に存在する万物に宿るエネルギーである。呼吸をするように体内に取り込み、魔法発動体を媒介させて用いる。魔力を大量に消費すると、精神力を消耗して疲弊(限界を超えると気絶)してしまうが、休息を取ると回復する。主に西洋魔術の世界で用いられるが、東洋魔術でも併用される。魔力を自在に操れるようになるには、専門的な教育を受ける必要がある。
対して気は、人間の体内に秘められた生命エネルギーを根源とするものであり、使用者の体力を消耗させて用いる。東洋魔術のひとつである陰陽道をはじめ、後述の神鳴流や中国拳法などの達人技にも使用される。魔力とは異なり、厳しい修練によって自然と体得できるものであるため、魔法の世界に携わらない一般人であっても使える者がおり、超人的な強さを手に入れる由来になっている。
いずれも高度な戦闘においては顕著な効果を発揮するものであるが、魔力と気は相反する性質を持っており、東洋では「咸卦法」、西洋では「魔力と気の合一(シュンタクシス・アンティケイメノイン)」と呼ばれる特殊な技術を習得しなければ、同時に用いることは出来ないとされる。
また、東洋思想においては魔力と気のどちらも「気」の概念の中に含まれるとされる。その場合、魔力とは「陽気」のことであり、気とは「陰気」を指した言葉ということになる。
魔法使いの杖
魔法発動体として使用する他、箒のようにまたがって飛ぶ事もできる。飛行速度は自動車程度。
練習用の小型の杖や、杖以外の形(指輪など)をした魔法発動体もある。
呪文
西洋魔術では呪文にラテン語または古代ギリシャ語を用いる。ラテン語と古代ギリシャ語では、後者の方が上位の魔法であるとされる。呪文を唱える前に「始動キー」という、言葉としては意味を持たないパスワードのようなものを唱えるが、簡単な魔法では修練次第で省略できる。ウェールズの魔法学校の生徒には「プラクテ・ビギ・ナル」という練習用の「始動キー」が与えられ、正式な始動キーは学校卒業時に自分で考える。また、学園祭途中に弐集院光が「その始動キー、変えたほうがいいですよ」と言われていることから、変える事もできるのではないかと思われる。
始動キー
ネギ:「ラス・テル・マ・スキル・マギステル」
エヴァンジェリン:「リク・ラク・ラ・ラック・ライラック」
綾瀬夕映:「フォア・ゾ・クラティカ・ソクラティカ」
超鈴音:「ラスト・テイル・マイ・マジック・スキル・マギステル」
佐倉愛衣:「メイプル・ネイプル・アラモード」
ナツメグ:「ラプ・チャプ・ラ・チャップ・ラグプウル」
弐集院光:「ニクマン・ピザマン・フカヒレマン」
ナギ:「マンマンテロテロ」(しかし、これは作中ではエヴァンジェリンの回想のみでしか使われていないため本当に始動キーなのかは不明)
一方、東洋魔術の陰陽道では、梵語や祝詞を呪文に用いる。こちらは詠唱に際する始動キーが存在しない。

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