時代による変化はあるが、アッシリア帝国の時代、アッシリア軍は中央軍と地方軍からなっていた。地方軍の指揮権は各州の長官にあり、兵の補充や補給も各州の権限で行われた。この地方軍には被征服国の軍も編入されたが、当然反乱の温床ともなり、それに対応するために一つ一つの州は非常に細分化されていた。中央軍は王の直属とされ、「王の結び目」と呼ばれたが、そのトップにいたのは宦官の長官であり、王に代わって指揮をとることもあった。中央軍の編成は10人を最小単位とし50人隊、100人隊という編成を取る古代のセム系民族に一般的な部隊割りを採用している。王は儀式として閲兵式を取り行ったことも知られており、閲兵のための砦も建設され、平時の武器の貯蔵庫としての役割も果たした。
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兵科は歩兵(槍兵、弓兵、盾兵)、戦車(チャリオット)、騎兵などで編成された。この他に現代でいうところの工兵に相当する部隊も存在し、渡河や城攻めで大きな役割を果たした。特にアッシリア軍は弓兵を多く用いたという。盾兵は敵の弓矢から味方の兵士を守るために大型の盾を装備した部隊であり、弓兵とセットで運用された。戦車部隊は中アッシリア時代に恐らくミタンニのそれを参考にして採用されたと考えられ、アッシリア帝国期でも重要な兵科であった。特に「足の戦車」と呼ばれた王直属の戦車部隊は親衛隊とも言うべき役割を担う部隊であった。鉄の武器を使用し、東方高原から輸入した軍馬を用いた騎兵はこの時代に新たに導入された兵科である。当時はまだ鞍、鐙などの馬具が発明されておらず、後の時代の騎兵に比べて運用は困難だったと予想されるが、重要な兵科としてすぐに広まった。アッシリアの浮き彫りの中には馬上から弓矢を射る弓騎兵や、槍を構えて突撃する騎兵の姿を写したものがあり、当時の戦争の様子を知ることができる。
兵員数は最も多い時で200000人と当時の記録にはあるが、誇張であるとの説も根強い。しかし考古学者の予想する兵員数は数の開きが多く、最も少ない見積もりでは50000人程度とする説もある。正確なところは不明であるがしかし、シリア地方の諸国家の軍が時に数十人から数百人規模で記録されていることを考えれば、少なく見積もっても当時としては圧倒的な兵員数を誇ったことは間違いない。